川田順(1882~1966)、東京都生まれ、東京大学卒、住友総本社にに入り、実業界で活躍。、経済人としても一流でり、歌壇の重鎮であった川田順は、1939年、和子夫人を脳溢血で亡くす。翌年、京都北白川に新築した「夕陽居」に移住、ひとり気ままに歌作、研究に打ち込んでいた。そのときに順は知人宅で若く美しい人妻との出会いがあった。元京大教授、経済学博士、中川与之助夫人俊子である。川田と中川は旧知の間柄であったが、俊子に「新古今集」研究の手伝い等をつとめてもらう中で、川田と俊子の交際は人目を忍ぶ仲へと発展、俊子との仲は中川の知るところともなる。川田は俊子との別れを中川に誓うが、結局逢瀬に再び身をやつすこととなり、1948年8月、中川夫妻は離婚に至る。しかし川田は自責の念に苛まれたことなどから、同年11月30日に家出、12月1日に亡妻の墓前で自殺を図った。一命をとりとめたが、川田が家出の際に谷崎潤一郎ら友人に宛てて遺書を、また新聞社に告白録などをそれぞれ送っていたことから、自殺未遂の顛末が報道され、俊子との交際が公になり、いわゆる“老いらくの恋”として騒がれることとなる。翌49年に川田は俊子と結婚、再婚後は京都から神奈川県小田原市国府津に。その後、藤沢市辻堂に移る。俊子の2人の子を引き取り、この地で俊子の献身に支えられた安穏な晩年を送る。
1966年1月22日、全身性動脈硬化症のため死去。戒名は泰順院殿諦道博文大居士


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                    川田順    天球院障壁画「一羽の小禽」寄稿文


















墓所は京都法然院           鎌倉東慶寺